原産地呼称の歴史①(〜AOC法設立)
こんにちは、Aoyama Wine Baseのフィゴーニです。
蛯原健介さんの著書"ワイン法"を読み、非常に興味深かったため、個人的に興味深いところを中心にピックアップしました。ワイン好きの方、学習されている方は、是非これを読んでから、本も併せて是非買って読んでみてください!非常に勉強になります。
フィロキセラの影響:
19世紀中頃からうどん粉病やベト病に悩まされ、南仏ではウドンコ病やベト病に強いアラモン種が植えられるが、風味が弱いため、アルコールが添加される事もあり非難の対象となっていた。
また、最初にフィロキセラが1863年に発見され、その災禍が広がり、ぶどう樹が枯渇し、ワイン不足に陥ってしまうが、大量にイタリアやアルジェリアのワインが輸入されていたため、不足する事はなかった(フィロキセラがイタリアやその他の産地を襲うのは後程でまだ到達していなかったため、好気であったフランスのワイン不足を補うために、イタリアのピエモンテや南部では1870年〜1990年に生産量が二倍になり、フランス支配下のアルジェリアからも輸入された)。
また、1880年代にはギリシャやトルコからレーズンが輸入され、それに水を加えて発酵、香料や着色料を加えたり、ぶどうの搾りかすに水と糖分を足し、発酵させて色付けしたりとワイン模造品が横行してしまい、フランス国内の生産者の不満の増大、デモに繋がりってしまう。
つまり、ワインの定義付けや規制が法的になされていなかったがために、低品質なワイン、現在の基準では到底ワインと呼べない飲料などが、高品質で知名度のあるワインのブランド名を借りて蔓延り、消費者をこんがらせると同時に、供給過剰による価格の下落で、生産者(特に南仏で作られる、低価格帯のテーブルワインの生産者)を苦しめることにもつながってしまった。
1899年グリフ法と1905年法:
上記のような粗悪なワインを止めるために、ワインの定義付け及び、罰則を含める規制法がようやく20世紀末に作られる。
1894年にはワインに水やアルコールを添加することが禁止される法律が制定され、ワインという名称を表示する場合、新鮮な葡萄を発酵させたもの以外は発送及び販売してはいけないと定義づけられる。新鮮なぶどうを使ったもので発酵を行わなければワインとは呼べないというのは、レーズンなどで作った商品や、砂糖水のものにはワインと表示できないというようにも言い換えられる。
また、原料に対する規制のみならず、産地を守る法律も制定される。
というのも、スペイン産やアメリカ産、アルジェリア産をブレンドしたワインにもかかわらず「ボルドー」を名乗ることもあった。そのため、1905年法では原産地について虚偽の表示を行う場合、刑罰が科された。つまり、ボルドーとラベルに表示される場合は、ボルドー地方で収穫された葡萄にしか使えなくなったため、ボルドー地方の栽培農家にとっては非常に意義のある法律(産地ブランドの不正利用と価格の下落を免れる)であった。
(※しかし、実際には1919年法ができるまでは、他産地のぶどうやワインのブレンドの慣行は残っていたため、後に述べる正式に原産地呼称法ができるまでは、産地の呼称の不正な使用が存続していた。例えば、ジュヴレ・シャンベルタン村のような有名産地の名前を使いながらも、実際は様々な場所から葡萄をブレンドして作られる事が慣行としてあり、もしこれが許されなくなった場合、ジュヴレ・シャンベルタン村のみから葡萄を買わないといけなくなる事を恐れていたためである。しかし、栽培農家自体は産地をブレンドして幅を利かせてるネゴシアンに強い不満を持っていたため、1919年法以降はネゴシアンのブレンディング慣行が許されなくなったという意味では意義があったと著者は話している。)
しかしながら、20世紀初頭の頃は、例えば、どこまでを「ボルドー」や「シャンパーニュ」と定めるかは決まっていなかったため、産地の境界線を決める必要があった。しかし、栽培農家、ネゴシアンや隣接する地域などたくさんの利害関係をどうまとめ上げて境界線を決めるかはまだ決まっていなかった。
以下、著者のいう、行政の失敗と裁判所の失敗について述べる。
行政最高裁判所と司法による産地境界線画定及び品質要件失敗:
地域の範囲の画定は”地元の慣習”に基づいて行政最高裁判所によって行われると決まり、それぞれの産地に委員会を設置し、技術者や学識経験者の意見をもとにシャンパーニュ(1908年)やボルドー(1911年)の産地画定が実施された。
しかし、前述した通りこれが新たな火種に繋がってしまう。
シャンパーニュの産地画定の失敗は非常に有名な話であるためここにまとめておく。
シャパーニュを名乗れるかそうでないかで葡萄の価格が全く異なり、ぶどう栽培農家にとっては死活問題であったためである。そのため、どこの県までをシャンパーニュと呼べるかは非常にデリケートな問題でった。
具体的に、シャンパーニュの中心地のマルヌ県の栽培農家はマルヌ県産のぶどうから作られたシャンパンのみがシャンパーニュを表示できると主張(有名生産者が犇いたいた事と、他の産地を認めると葡萄価格が下がる事を危惧していた)したのに対して、南隣のオーブ県の栽培農家は自分たちもシャンパーニュを使う権利を主張する。
行政はオーブ県の葡萄を使って、マルヌ県でワインを生産した場合、シャンパーニュを名乗って良いことにした事がマルヌ県の栽培農家の逆鱗に触れ、マルヌ県の栽培農家がエペルネ村やアイ村のワイン商のセラーを次々に破壊する。
この暴動をきっかけに、政府はマルヌ県の要件を受け入れたが、今度はオーブ県の栽培農家が抵抗した事で、産地画定が不可能となり、産地境界線の廃止を決議した。
しかし、これに憤ったマルヌ県の栽培農家はエペルネやアイの町を荒らし、数千本の葡萄樹が焼き払われ計6000万本ものボトルが破られてしまう。ゆくゆくは、オーブ県を含めシャンパーニュの産地の境界線が決められることになるが、この事件はつまり、行政によるトップダウンの産地画定が機能しない事を示した事例である。
次に、司法の失敗。
産地の境界線が定められたとしても、品質に対しての規制がなかったため、その産地で作られる葡萄酒であればなんでもよかったのである。レーズンワインや砂糖ワイン、他産地のブレンドワインを除けば使用品種、生産場所、生産方法についての制限はなかったとも言い換えられる。
しかし、バルサックの悲劇と呼ばれる(甘口ワインの生産地)事件以降、産地を名乗るからには品質要件を備える必要があると認識される。フィロキセラの災害以降、改植された多くの葡萄品種が低品質なアメリカ系の交雑種であったり、葡萄栽培に向かない産地に葡萄畑が広まったりと、ブランド名を利用した粗悪なワインが広まってしまう。ボルドーのバルサック地区では、栽培に不適切な湿地帯で育てられた粗悪な品質なワインが原産地呼称を名乗ることを裁判所が認めてしまったり、メドックでもアメリカ系品種の交雑品種が植えを認めたりと、裁判所にボルドーたらしめる品質要件を決める事ができなかったのである。
品質要件は生産者が決める:
行政主導、司法主導の原産地呼称や品質要件の定義づけが困難ななか、新たな方法が模索された。
前述した、交雑種や低品質なワインを作るエリアを早期に解消するために、1927年には地元の慣習により認められた生産区域と葡萄品種でなければ原産地呼称を名乗る権利がなく、また交雑品種も原産地呼称を名乗ることが拒否されたブランドを守る意味では意義があった。
そして、一歩踏み込んだのが1929年のアヴィニヨンの裁判所の判決。
シャトー・ヌフ・デュ・パプで生じた不正行為やワインの品質低下を防ぐ目的として、地理的範囲のみならず、品種、最低アルコール度数、葡萄の選別などを考慮すべきとピエール・ル・ロワ男爵が組合を作り裁判で戦い、裁判所がこれを認めた。
重要なのは、品質要件は生産者自身によって規定されるべきだという原則がこの裁判から生まれた点にある。行政や司法が主導になり産地の境界線や品質要件を決定する事が不可能である事が認識され、生産者(その地域の生産者委員会)がボトムアップで新たなAOCや規定を制定するのは現在でも変わらない点は、様々な利害関係を含めた妥協案が成立する意味では前進したのかもしれない。
AOC法の制定:
AOC法の生みの親はジロンド県選出の議員のジョセフ・カピュスで、原産地呼称のワインの削減、品質要件には収量や最低アルコール度数を課すべきと主張し、生産基準の決定はそれぞれの生産地に設立された原産地呼称の保護組合が中心に行い、行政でもなく、裁判所でもなく、作り手自信が品質要件を制定・管理すべきという1935年のAOC法の基本原作の法案を上院に提出し、AOCを管理する機関(現INAOが設置される)。
AOCの生産基準は生産者組合の意見のもとにINAOが決定し、政府が政令の形式で制定されることが定められる。これにより例えばAppellation Bordeaux Controleeのような表示はボルドーという産地名がAOCとして保護された名称であることが示した。
※ただし、個人的には、多くの利害関係を組み込む必要のある折衷案的な境界線や品質要件定義は、必ずしも消費者、生産者双方にとってポジティブであるとは言えないと感じる。例えば、イタリアプロセッコやキアンティ、フランスのサン・ジョセフやクローズ・エルミタージュの産地の境界線拡張は品質が一般的に低いワインと高いワインが一色単にされブランド力が減少してしまう事が危惧される。同じクローズ・エルミタージュでも、北の丘で取れる葡萄と南の肥沃な平地で取れる葡萄には大きな質の差があるが、ラベルからこれを紐解くには相当の知識がないと難しい。よって、消費者にとってもわかりにくい上に、生産者にとってもブランド力を低める事にもつながる危険性があると考える。
次回は1935年以降の法律の改定などを中心に書きます!